えいがのまちちょうふ




「映画」をキーワードとして、市民が調布のまちづくりにどう関われるかを考える部会です。
現在行われている事業は次の通りです。

●「映画のまち調布」学習会(楽習会)

一般市民を対象に、映画関連の関係者を講師に迎え、講演会と、私たち市民がまちづくりにどう関われるかの意見交換の場。

● 調布映画まちづくり会議

映画に関心を持っているサークル・団体・個人がコミュニケーションを図り、情報を共有し、フリートーキングを行う。 将来的に連絡協議会のようなネットワークを構築し、行政との協働が出来る位置づけを目指す。




*** 今後の活動予定 ***


調布ジュニア映画塾に関してはこちらのちらしを御覧下さい






*** 今までの活動の記録 ***


■ 第5回楽習会 2007.2.27

テーマ:『日本映画はどのように誕生し、どのように発展してきたか』
          〜調布と撮影所との長い親類付き合いにも触れて〜
講 師:吉松安弘氏
      元帝京大学教授、映画監督、ノンフィクション作家、日本旅行作家協会評議員
    (調布市在住)

日 時:2007年2月27日(火)19:00〜21:20
場 所:調布市国領あくろす2F台会議室

参加者:25名 狛江、世田谷など市外からも参加あり


 今回は、講師が1957年大学卒業後、東宝撮影所の助監督として入社以来30年以上に亘る現場、海外研修実績のもと、映画発明当時のビデオ映像を交えての充実した話で参加者を魅了した。


当時の映画事情

 入社翌年の昭和33年(1958)は統計上映画人口がもっとも多かった年。年間11億人、 一人の人が毎月ほぼ1回映画を見た勘定になる。
 平成18年(2006)は1億6千万人。しかし現在は、DVD、TVなどがあり、実質映画を見る 人は当時より多いと思われる。
 産業面では40,50年前とは変化している。当時は、スタジオシステムで、大きな映画会社が 資金を出して沢山作り、系列の映画館に流す。年間60,70本作っていたので、残業の連続、 撮影所の近くに住む必要があり、1960年から調布市民になった。

映画の歴史

 19世紀に生まれたもっとも大衆的なもの、国際的芸術、メディアであり、19−20世紀の 移り変わる人々の心、社会の支持が必要であり、社会の変化を反映する。19世紀の終わり頃は、 無線、蒸気機関、電気など発明の時代。現実を固定するのは絵画であったが、写真が発明された。 これを動くものに出来ないか、夢の実現を試みた。アメリカの発明王エジソンが実現させたが、 これはのぞき式のものであった。その後フランスのルミエールがスクリーン式を発明、現在は これが公認されている。
 1895年12月28日、パリで最初の映画を公開。・・・〈ルミエールの映画を上映〉
当時は無声の活動写真、小屋を張っていた奇術師が映画を出し物にしようとした。メリエスは、 フィクション物を作るが、ここに必然性のない水着の女の子を登場させる。エロ、バイオレンスが 映画の定番といわれた。その他、ファンタジー、空想科学ものは当時からあり、夢に溢れた世界観 が出ている。

産業面から

 映画製作には大金を投じているから、その資金も回収しなければならない。その仕掛けが映画を 作る会社の発生である。当時は小屋の片隅にカーテンを仕切って映画を見せた。当時は1セントで ペニーアーケードといわれた。労働者の楽しみは酒とダンスホール。そこへ安くて短い時間で楽し める映画を加えた。
 米国には1900年前後、南ヨーロッパのイタリヤやギリシャの貧しい人たち、東ヨーロッパの 迫害されたユダヤ人が大量に移住した。英語は分からないが、映画は無声だから言葉は不要。移住の 労働者にとって楽しむことが出来た。米国の特徴は西部劇、ドタバタ喜劇。入場料は5セント、ニッ クオデオンといわれた(ニックは当時の5セントコイン)。当時のニューヨークには600の小屋が あった。東京でも明治の終わり頃は、100の寄席があったことからすればうなずける。音楽や絵画、 スポーツはヨーロッパの貴族のもであったが、映画は複製がいくらでも利くから安上がり、アメリカ の大衆社会に似合ったものであった。
 映画のビジネスにはユダヤ人がかかわった。映画は製作、配給、映画館の3つからなる。ユダヤ人は 弁護士、医者、芸術家、科学者など一人でやる職業が多い。差別があったから組織外で実力を発揮した。 ユダヤ人はパレスチナから世界に広がってきており国際的な感覚を持っていた。農業はやらず、商人が 多かったから、これらの人が映画の経営に加わった。アメリカではエジソンの特許料の問題から、東海 岸から逃げて、西海岸へ移った。当時はフィルムの感光度も低く、太陽があり、自然光の中で撮影が有 利なロスの郊外のハリウッドに移ることになる。1910年前後である。
 アメリカのワーナー、パラマウント、メトロ、ユニバーサルなどメジャーはユダヤ人が多く、才能の ある人を受け入れて息づいている。ヨーロッパでは第2次世界大戦があったが、アメリカでは影響は なく、世界の85パーセントはハリウッドで製作、喜劇の世界的な人気者チャップリン、ロイド、キー トンを生み出し、クリティヴがクローズアップ、ロングショットなど映画の手法である映画文法を確立 した。映画はやがて中産階級、知識階級にまで広がっていった。

日本の映画業界

 1894年に始まる日清戦争に勝って、アジアの独立国として、欧米の文明科学技術を取り入れた 時代。1905年に浅草に電気館ができる。当初は、見世物、相撲、歌舞伎の実写をしていた。日露 戦争が始まるとその実写が公開された。やがて映画を作る会社、日本活動写真会社略して日活が作ら れる。1913年、向島に撮影所を作る。
 やがて映画は新しい時代の象徴ということになり、1916年の中央公論で、自動車などとともに 映画を一大産業とした。総合雑誌で取り上げられ、当時の知識階級にも公認されたことになる。当時 は無声映画で弁士がいた。これは日本だけであり、浄瑠璃の古典芸能があったからである。文楽で 人形遣いが居り、義太夫が語る素地があったからである。外国映画にも弁士がついた。やがて弁士が スターになった時代であった。

 〈小津安二郎監督サラリーマンもの『生まれてはみたけれど』上映〉
人間社会は我慢しなければならない辛いことがあるというテーマである。
 黒澤と小津の違いは、激しいものと日常生活的なものとの対比。共通は日本的なもの、これを 追求してインターナショナルなものへ持っていって理解を深めて行く手法であった。

 1923年に関東大震災があり、撮影所はみな京都へ移る。松竹は翌年蒲田に戻る。日活は1932年に 今の多摩川に移る。当時の撮影所は品川道を挟んで布田の付近まであり、多摩川河原までの広大な 敷地であった。

映画文化史

   戦前は戦意高揚の映画を作る。映画は宣伝力が大きい。イギリスのカサブランカも同じである。 日本映画の特徴は、敵が殆んど出てこない。戦地の兵隊はどんなに苦労しているか、頑張っている かを描いており、反戦映画といってよい。鬼畜米英といっているが、その場面は出てこない。 その点中国や韓国では、日本が如何に悪であるかという映画を作っている。米国でもドイツは残忍 で卑怯であるかを描く。
 日本の戦後米国の文化が入ってきた。アメリカは3S政策といって、スポーツ、セックス、スクリー ンを若い者に蔓延させて、日本人を馬鹿にしようとしていると言われてきた。当時TVなどの娯楽は なく、アメリカ映画を好んで見た。
 1951年、黒澤の羅生門がグランプリを取り、日本人が自信を取り戻すきっかけをつくる。映画は 国際的で国際映画祭があり歴史は余り古くなく、ベネチア、カンヌ、ベルリンで、一番なのはベネ チア。イタリヤのムッソリニーが始める。独裁者がローマの郊外に映画の町を作り、撮影所や映画 学校を作った。無名でもそこで優勝すれば一躍有名になり、興行的に成功する。監督もそういうと ころがあり、大賞を取れば世界中の配給会社が群がる。日本の映画は自然の描写がすばらしいと 評価されている。色を殺すことをやる。
 日本は戦後娯楽がなく、映画を二本立てにして作った。東宝、松竹、東映、日活、東宝争議の後 新東宝が出来て、5社協定などが出来る。互いに他社の俳優や監督を借りることが出来なくなり、 当時有名な俳優や監督が居なかった日活は若い人を育て、後石原裕次郎、渡哲也、監督では今村昌平 などを生んだ。
 映画監督の仕事は気力、知力、体力の要る仕事。自分の考えは持っているが、やるのは他人である。 金も俳優も音楽も他人を動かすわけであるが、意見も違うし喧嘩になることもある。しかし結果が よければ自分のものになるし、観客が入らなければ責任を取らされることになる。黒澤監督もプロ デユーサーと喧嘩し、映画が撮れなくなったことがある。
 監督は脚本の文字からイメージを作る人である。「道」と書いてあるが、道にもいろいろある。 人生の中のイメージもある。しかし、俳優も余り高くて使えない。それで実際にはちゃちなものになり、 イメージを壊す人だとも言われる。
 監督は一度編集すると、著作権は監督にある。アメリカでは監督とプロデユーサーが著作権を争って、 監督が負けてしまい、最終編集者のプロデユーサーがもつことになった。監督は著作の人格権を持つ ことになった。
 映画の監督とテレビの演出家との違いは、監督は俳優、小道具の一つまで自分の作品になるため、 こだわりが多いが、テレビはプログラムの見方で見られるため、例えば金持ちの食事の場面で、 食器がちゃちであっても、TV画面では分からないということで、スタッフも協力してくれない。
 アメリカの映画は世界で一番だと思う。お客を如何に喜ばせるか、面白いものを作ろうかと 考えている。人生はいかにあるべきかも入っている。あの国の価値観、正義感を持っている。アメ リカはコンピューターの世界だけでなく、映画が優位を保っているのはそこにあると思う。1990年 バブルのときにコロンビアをソニーが、ユニバーサルを松下が買って反感をもたれたのも理解できる。
 今、映画会社が映画を作ることが少なくなっている。脚本を持って金集めして作る。金を出すのは 企業という時代になっている。映画監督は作品をしばらく作らなくなっても元監督といわない。良い 企画と金が集まればまた作らないとも限らない。人殺しといわれるゆえんである。もと人殺しとは 言わないからである。     おわり。


質問:アメリカでは弁士はなかったのか。
A :日本独特のもの。アメリカでは音楽をつけている。ピアノのような簡単なものからオーケストラを    つける場合もある。



要望により、多摩川河原で撮った吉松監督の作品『陽の当たる坂道』の一部を上映して終わる。
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■ 第4回楽習会 2006.7.26

  テーマ:「映画に命をかけた男の話」〜一人のプロデューサーの人生〜
  講師:シネマ・ディスト 代表 川嶋 博 氏

 今回は東宝や松竹など100 社余りある映画の企画、制作、配給する会社の中の小さな会社 シネマ・ディストの代表でありプロデューサーである川嶋さんに、映画に向かう信念などを 熱っぽく語って貰いました。


・最近の映画事情

 1959 年に観客人口11 億8 千万人、即ち国民一人当たり月一回見ていた勘定になる。映画館も 8 千館でピークであった。所がこれからの映画人口は減少の一途を辿り、今から5〜6 年前の1998 年には観客数で1 億4 千万人、館数で1800 館に減少。約十分の一の規模になってしまった。

 このような事情の中で、年間700 本作られる作品の1〜3 本しか作らないシネマ・ディストと いう小さな会社を何故立ち上げたのか。それは私が思うような真っ当な企画が取上げられない ような仕組みが映画界にあったからである。作品の力を分析し、何処に観客がいるのか、観客と どう気持が繋がるような映画を育て、制作をすることが出来るのか、そのためには自分で会社を 作るしかないと言う事である。

 その後、1998 年をボトムとして映画界の考え方が変わってきた。今映画館と言うのはシネマ コンプレックスのことで、1 館に7〜10 スクリーンがある。3000 スクリーンまで回復したが、 過半数は大都市に偏在している。配給作品は外国のものを含めて余り変わらない。もう一つ言え る事は、最近公開された「ダビンチコード」のように、日本全国840 スクリーンに一斉にかける ようなことをする。作品の評価は別の話であるが、中小の作品が締め出されている事情は変わっ ていない。儲からない仕事を喜んでやっている会社である。


・映画に命をかけた男 松木征二との出会い

 私が映画界に入ったきっかけは、70年安保の時代、そこに高揚した空気があり、70年6月23日に 大きなデモがあった。当時大学3年生であった私は、学校に行っても何をやって好いのか判らない。 その時、当時前進座の友人S さんを介して、日活の撮影所で「戦争と人間」の観客動員の応援を してくれないかと誘われた事からである。そのうち、会社に関係なくやりたい事をやるには自分 たちでやるしかないとなり、仲間と71 年12 月に会社を作る。それ以来何処の会社にも属さず、 仲間達と様々な事を決め様々な事をやってきた。

 1972 年、大ヒットした「若者たち」3 部作に関わり、そのプロデューサー松木征二に俳優座の人を 介して会った。松木さんは「偲ぶ川」などを手がけた大プロデューサ―で、私に「僕と一緒に プロジェクトを作ろう」と誘われ、1991 年M プロジェクトを作る。

 その夏ごろ、佐賀の鳥栖の人からラジオ福岡にオンエア―された作品を持ちこんできた。 この作品は非常に評判を呼んで、この話を鳥栖だけでなく全国に広めたい。脚本を書いた毛利恒之 さんに相談した結果、松木さんの所に来たものである。シナリオが出来て私に回ってきた。このまま やると3 時間以上かかるので、これを縮めたのが「月光の夏」である。

 半年ほどして、松木は「これが出来あがっても、俺は居ないかも知れない」と言う。ガンだと言 うのである。それからは前のめりのように動き出した。松木は中代達矢さんをどうしても使いた かった。香港まで追いかけて承諾させ、流れを作ってから入院した。

 92 年11 月25 日完成。12 月3 日松木亡くなる。公開するまで6 ヶ月間亡霊となって現れた。 公開大成功をおさめてから消えた。松木は当たれば何でも良いという男ではなかった。絶対に 妥協を許さなかった男であった。
   
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■ 第3回楽習会 2006.5.25

  テーマ:「映画のまち調布」〜映画制作における最新技術事情〜
  講師:有限会社 マリンポスト 田中 貴志、舟橋 奨の両氏

 第3回目は、調布市内にある映画関連企業のうち、映画タイトル、CG 合成など先進的な技術について、 最近携わった映画のメイキング映像を見ながら、大変興味深いお話を伺う事が出来ました。

 マリンポストは、28 年前東映ラボテックのマレーシアなど東南アジアのCM の編集を手懸け、 1983 年にはマレーシア、インドの90%のシェアー持っていた。1987 年以降は日本映画のタイトル 作成を始め、『竹取物語』(東宝作品)が最初。現在、当社の70−80%は映画の仕事。タイトルは 本編より予告編に多く使われる。最近は歴史物の撮影場所が少ない為、絵で書いたものを動かして CG 化する。又日本映画は制作費が少ない為、CG による事が多い。

 CG 合成技術を組み入れる映画には、三つの段階がある。
1.準備:原作,脚本、撮影場所、画作り出来ない部分のCG 化など準備段階から加わる。
2.撮影:絵コンテを作りアングルを決める。最近は動画の絵コンテを作り俳優にイメージを持ってもらう。
3.仕上げ:編集し、現場にないものをCG で作り、後から入れる。音入れも後からする。映画劇場ではフィルムに 転換して映写する。
 昨年公開の『春の雪』は明治時代のもの。汽車のセットで窓の向こう、奥の方はマット画を合成している。 『男たちの大和』は空撮で現在の自衛隊のものを撮り、後で大和に置きかえる。撮影に制約のある一般道路の カーアクション等にはCG が使われる。

  以上の通り、調布市内には多くの映画関連企業があるが、お互いに関係し合いながら育って行くもの だと言う事が感じられた。
   
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■ 第2回楽習会 2006.3.29

  テーマ:「映画のまち調布」〜市民、自治体、企業の連携の為に今、出来る事〜
  講師:日活株式会社撮影所事業本部学院部係長 打田 正 氏

 第2回目は文化の薫り高いまちづくり、産業振興による地域活性化、撮影に協力して貰いたい 製作者(企業)のそれぞれの立場から、どう連携させるかについて、映画界における立場、 本音について興味ある話をして頂きました。

 製作者側の立場として、知名度のアップにはなるが、期待されるほどの経済効果は出ないこと、 市民には迷惑をかけることがある。そこで、映画界の特色を知っていただきたい。映画人と 言われる人(俳優、監督、プロデューサー)は、作品製作のために打ち込んでおり、一般常識を 超越する部分があり、この辺の調整及びお互いに理解をし合えるかにある。製作の為に市民も 行政も如何に良い環境を作って頂けるかである。まちづくりについても、映画のまち特区の申請や 色々な時代の商店街がある、電柱が一本もない町があるなどが望ましい。

 市民の方からは、高齢者向けの映画など幅の広い層の映画を作る必要がある。川原の改修にも、 すべて今風になる恐れがある。駅を降りて、映画のまちという雰囲気があるまちづくりが必要。 過去にあった映画のまち調布は残像に過ぎない。しかし今消えないうちに手を打っていくことが 大事であり、市民、行政、企業の連携と相互理解が強調された。
   
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■ 第1回楽習会 2006.1.18

  テーマ:「映画のまち調布」〜今後の展開と推進について〜
  講師:調布市生活文化部産業振興室 産業振興センター担当課長 豊田 靖 氏

 第1回目は、かっては「東洋のハリウッド」といわれ、今なお映画関連の企業が集積している調布市の 今後について、行政の立場から話していただきました。調布市と映画の関わりは昭和7年、京都より誘致、 日本映画叶ン立、その後日本活動写真(日活の前身)、昭和20年大映、現在角川大映として、調布には 日活、大映二つの撮影所があります。

 平成17年度は、調布市制50周年に当たり、@映画のまちウォークラリーA高校生フィルムコンテスト等を 行ない、特にフィルムコンテストは、全国規模の事業に展開したいという希望があります。調布は既に NPO法人フィルムコミッションも設立され、多摩地域の連携など今後の発展が期待されます。

 市民の方からは、行政として映画関係の窓口を一本化し、まちづくりの為に持続的に推進することが 必要であると言う意見が出されました。
   
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